あさま山荘への道程 【監督:若松孝二】 [君にMOVIEを!]
どう考えていくかという命題がありますが。
ボクの言葉と、ボクの感覚で。
その全てが、ここに載せることが出来たら。
1通の手紙のような想いで、感想文。
1978年生まれのボクに「連合赤軍」と言っても、「あさま山荘」程度の知識しかない。
大学受験の為に蓄えた、猛烈な日本史の知識はあるが。
この昭和元禄は、試験には出ず。
現代の話など、公民レベルでないと設問にならないのかもしれません。
「連合赤軍」という仰々しい言葉のせいで。
色んな意味が煩雑に絡まるかもしれないが。
若松孝二監督を知ったのは、スタジオボイス。
赤塚不二夫氏との会談。
当時のボクはとても赤塚作品を崇拝していて。
赤塚不二夫氏の著書から漫画など、多くを読んだ。
対談などは、更にその人間性を深く潜る深層的なもので。
興味深かった上に、何より話がコントの様で面白かった。
それが若松監督を知れたキッカケであります。
幾らかの時間の経過のあと。
この映画の存在を知るわけです。
この映画だけは、観なくちゃいけないと思えるのは。
思い入れからでもあり、対談の折、赤軍の足立正生氏の話があったこと。
あさま山荘を描く時には。
目を背けたくなるようなベースでのリンチシーンも含め、
「鉄球」イメージになってしまうあさま山荘への道程また過程、史実を踏まえてまとめる必然。
エンターティメント気質たるハリウッド大作に模したものよりも。
なぜあそこまで行き着くのかその果てと過程こそが大切だと思うのです。
なぜ、あそこまで考え、その生き方を実行できたのか?
それはカルトやら狂教のごとく、信奉信心を担う「肝」であり。
その狂気こそ、現代私たちが何か感じ得なくてはならないことだと感じたり。
映画を見る前に。
ボクは勝手なイメージをしました。
「革命」という大義名分の実行のための研鑽。
また思想の拮抗。
そして、あさま山荘での行く末。
ただ、そんなものは何も存在せず。
あったのは「個」
何かを信じることは良いことだと思うのです。
しかしながら、その信じたことや思想を誰かに布教したり、強要したり。
また、その信じるものへの意識を高めるための業だったり。
それは個人の中で処理し、蓄積すればいい話で。
それを誰かと共有したり、共感して欲しいと願ったならば。
必ず軋轢が生じます。
誰かに評価されたり、評価したりということ自体が、
実は、既に歪んでいると思うのです。
迷いであったり葛藤であったり。
自分が強くある人間は、他人に依存しない。
と言いたい所ですが、基本的には1人では生きていけない現実もまた然りで。
本当に何者にも依存しない。
そういうことが出来る人間は孤独や閉鎖、閉塞的なものが恒常で。
現代の生活や社会にあるならば、それはとても困難なことだと思うのです。
生産性が無ければ、基本食べることが出来ないわけですから。
評価を気にしたりすることで、自分を曲げ。
自分を曲げることで、評価を得る。
実のところ。
「革命」とは個人でしか成しえないことだと思うわけです。
音楽、絵画、など芸術と呼ばれるものの多くは、実は革命だと思ったりもするのです。
そこに宿るのは、個人の「魂や思想」の昇華で。
創り上げる時に、何を目指し何を達するのかという仰々命題ではなくても、
それらを高め形にし、己の意のままに作品を完成させた上での高い評価は、
誰にも媚びず誰にも曲げられず。
民衆を納得させることが出来るのは、1つ「革命」だと思うのです。
評価の良し悪しが革命イコールにならず、自己消化出来るだけでも、充分革命だとは思います。
最低でも、自分という人間を満足させてるわけですし、納得も賞賛も自分に与えてるのですから。
壊れるまで、その革命は続き。
形消えても、伝説として生きる。
先導し、煽動したことで巻き起こる「革命」は、その時代やその背景によって大きく異なり。
それは「革命」の域を超えた、転覆であったり土台ごと変える抜本的なものだったりする気がします。
映画の中での頻繁な言葉。
「総括」という、自分の行動規範や反省、それを踏まえての目標。
そんな設定を、日々出来る人間がいるわけもなく。
それを瞬時に答えることが出来たとしても。
それを評価してもらう、また評価される必要も意味もないわけで。
それを中心に起こるこの映画の中盤の「総括」=リンチのシーンは、
もはや、後半になるとコントのような滑稽さすら見え隠れするぐらい。
そこに起こる全ては理解不明なものと感じるのです。
実際に、意味がわからなくなってしまい混迷したことは、
当人たちの自供などで明らかになってる訳だし。
麻痺した感覚以上に、その闘争的革命無き革命思想の暴走こそ。
実感の無さではないかと。
映画の後半、「やっと本当の敵と戦ってる」という言葉は如実だと思うのです。
国家権力粉砕を目論むことは無いものの。
社会の不条理に言葉を上げることへの意識の薄さは。
今、現代でも猛烈に存在し、その現代における、憤りの無さというか、希薄さは。
対岸の火事的な国民性に存在しうる。
革命を説くことはない。
それが正しいとも思えない。
ただ革命を目指した人間であっても、葛藤や迷走は存在している。
思想から行動に移した人間でも、その道は真っ直ぐではなかった。
最後。
若松監督が、創り上げた「勇気がなかったんだよ」という言葉には。
強い美しさがあった。
あの時代のあの運動が、そして彼らの行動は、
罪として、受ける当然の罰が存在するが。
その時代が生んだ、国の強行もまた彼らを生み出す要因であり隙間を与えた。
武装という手段は、野蛮であり蛮行。
ただ、それと同じくらいの情報操作もまた蛮行であり。
事実自体をまげて、世論を操作することもまた暴力である。
しかしながら、大きなもの国家権力に立ち向かう前に。
目の前に起こった矛盾や疑問を払拭せずに暴走したこと。
それを制止せず黙認した上で革命を叫んだこと。
そこに何も生まれなかったこと。
あさま山荘という砂上の楼閣。
しかしながら、確かにあった事実。
そういう意味の中で、繰り広げられた物語。
その物語を事件だとして、済ませたくないと。
あの瞬間あの生き方しか出来なかった人間たちがいて。
それは何も過去のことではなく。
これからも起こりうる誘発性のある突発。
そこに浮かぶ感情であったり怒りがどこの矛先で、どのタイミングで表出するかはわからない。
ただ言えることは、何も隠さず。
向き合い。
その中で、良し悪しを細かく精査せず、それでいて。
言葉の端に本質を含ませるこのフィルムの実感は素晴らしい。
「連合赤軍」の映画としてみることも然り。
また自己投影しながら。
自分の生き方を問うのもまた趣があると思う。
どんな宗教を信じようが。
どんな境遇にういようが。
どんな仕打ちを受けようが。
どんな後悔があろうが。
決めてるのは、自分であり。
判断してるのもまた自分。
そこにある自分というものを、どこまで信じて裏切らないか。
そして、その自分をどこに向けるのか。
辛酸や苦しみの中から這出た己など、さほど意味がなく。
本当の己は、そのようなものに対峙する前から結果が出ていて。
埋もれることなく、己を見つめることが出来ると思う。
困難を困難と思わず、後悔を笑い。
また借りを作らず、貸しを問わず。
自然と回避したり裕に超える自分こそ。
何か、強い信念があるのじゃないかと考えてしまう。
革命を叫んだ戦いで。
「あさま山荘」では名誉の革命の死は無かった。
生きてこその革命。
命ある限りの革命。
どのような命題があったのか、ボクはまた本を読まなくちゃいけないと思う。
でも、思想の机上から表に出たときに。
賭せるようなものがあったら。
あさま山荘まで行き着かなかったと思う。
ボクの考えでは、まず連合赤軍にも入ってないのかもしれない。
誰もが何かの。
そう不意のタイミング、偶然。
あの時代の自然の流れで行き着いた場所が赤軍で。
そこが抜けることも逸脱することも許されないく空間となり。
その空間の混沌が闇に混じったこと。
シビアで冷酷で。
それが思想故だというならば。
信仰は自由だが、徒党を組むべきではないと思ったりもしたり。
紙一重の転落。
いずれにせよ、同志殺しといわれた彼らが、その同志殺しが消えかすんだのは、
テロルとしてのあさま山荘事件があったこと。
賞賛できる事件でもなければ、思想でもない。
ただ、オウム同様。
そこに踏み込んだのも自分の意思。
選択したことが大部分で。
そういうことを考えると、翻弄されたわけでもないし、流されたわけでもない。
終着の予期は出来ずとも、その結果には自分で自分の結論を飲まざるを得ない。
信じたものが間違ってると思ったら、それは自己否定になるし。
やり直しがおおよそ利くものだが、何度もやり直しをする自分の人生が果たして、
良いものなのか悪いものなのか、その評価もまた自分にしか出来ないのだから。
フィルムが流れる3時間以上の、時間の訪れが来る。
未だボクの中では映画が終わっていない。
=
この長文が正しい言葉で書けたか、自分でも不明瞭ではあります。
しかしながら、自分に問い考え、書いたわけですから。
これでいいのだと、そう吐きます。
ボクの言葉と、ボクの感覚で。
その全てが、ここに載せることが出来たら。
1通の手紙のような想いで、感想文。
1978年生まれのボクに「連合赤軍」と言っても、「あさま山荘」程度の知識しかない。
大学受験の為に蓄えた、猛烈な日本史の知識はあるが。
この昭和元禄は、試験には出ず。
現代の話など、公民レベルでないと設問にならないのかもしれません。
「連合赤軍」という仰々しい言葉のせいで。
色んな意味が煩雑に絡まるかもしれないが。
若松孝二監督を知ったのは、スタジオボイス。
赤塚不二夫氏との会談。
当時のボクはとても赤塚作品を崇拝していて。
赤塚不二夫氏の著書から漫画など、多くを読んだ。
対談などは、更にその人間性を深く潜る深層的なもので。
興味深かった上に、何より話がコントの様で面白かった。
それが若松監督を知れたキッカケであります。
幾らかの時間の経過のあと。
この映画の存在を知るわけです。
この映画だけは、観なくちゃいけないと思えるのは。
思い入れからでもあり、対談の折、赤軍の足立正生氏の話があったこと。
あさま山荘を描く時には。
目を背けたくなるようなベースでのリンチシーンも含め、
「鉄球」イメージになってしまうあさま山荘への道程また過程、史実を踏まえてまとめる必然。
エンターティメント気質たるハリウッド大作に模したものよりも。
なぜあそこまで行き着くのかその果てと過程こそが大切だと思うのです。
なぜ、あそこまで考え、その生き方を実行できたのか?
それはカルトやら狂教のごとく、信奉信心を担う「肝」であり。
その狂気こそ、現代私たちが何か感じ得なくてはならないことだと感じたり。
映画を見る前に。
ボクは勝手なイメージをしました。
「革命」という大義名分の実行のための研鑽。
また思想の拮抗。
そして、あさま山荘での行く末。
ただ、そんなものは何も存在せず。
あったのは「個」
何かを信じることは良いことだと思うのです。
しかしながら、その信じたことや思想を誰かに布教したり、強要したり。
また、その信じるものへの意識を高めるための業だったり。
それは個人の中で処理し、蓄積すればいい話で。
それを誰かと共有したり、共感して欲しいと願ったならば。
必ず軋轢が生じます。
誰かに評価されたり、評価したりということ自体が、
実は、既に歪んでいると思うのです。
迷いであったり葛藤であったり。
自分が強くある人間は、他人に依存しない。
と言いたい所ですが、基本的には1人では生きていけない現実もまた然りで。
本当に何者にも依存しない。
そういうことが出来る人間は孤独や閉鎖、閉塞的なものが恒常で。
現代の生活や社会にあるならば、それはとても困難なことだと思うのです。
生産性が無ければ、基本食べることが出来ないわけですから。
評価を気にしたりすることで、自分を曲げ。
自分を曲げることで、評価を得る。
実のところ。
「革命」とは個人でしか成しえないことだと思うわけです。
音楽、絵画、など芸術と呼ばれるものの多くは、実は革命だと思ったりもするのです。
そこに宿るのは、個人の「魂や思想」の昇華で。
創り上げる時に、何を目指し何を達するのかという仰々命題ではなくても、
それらを高め形にし、己の意のままに作品を完成させた上での高い評価は、
誰にも媚びず誰にも曲げられず。
民衆を納得させることが出来るのは、1つ「革命」だと思うのです。
評価の良し悪しが革命イコールにならず、自己消化出来るだけでも、充分革命だとは思います。
最低でも、自分という人間を満足させてるわけですし、納得も賞賛も自分に与えてるのですから。
壊れるまで、その革命は続き。
形消えても、伝説として生きる。
先導し、煽動したことで巻き起こる「革命」は、その時代やその背景によって大きく異なり。
それは「革命」の域を超えた、転覆であったり土台ごと変える抜本的なものだったりする気がします。
映画の中での頻繁な言葉。
「総括」という、自分の行動規範や反省、それを踏まえての目標。
そんな設定を、日々出来る人間がいるわけもなく。
それを瞬時に答えることが出来たとしても。
それを評価してもらう、また評価される必要も意味もないわけで。
それを中心に起こるこの映画の中盤の「総括」=リンチのシーンは、
もはや、後半になるとコントのような滑稽さすら見え隠れするぐらい。
そこに起こる全ては理解不明なものと感じるのです。
実際に、意味がわからなくなってしまい混迷したことは、
当人たちの自供などで明らかになってる訳だし。
麻痺した感覚以上に、その闘争的革命無き革命思想の暴走こそ。
実感の無さではないかと。
映画の後半、「やっと本当の敵と戦ってる」という言葉は如実だと思うのです。
国家権力粉砕を目論むことは無いものの。
社会の不条理に言葉を上げることへの意識の薄さは。
今、現代でも猛烈に存在し、その現代における、憤りの無さというか、希薄さは。
対岸の火事的な国民性に存在しうる。
革命を説くことはない。
それが正しいとも思えない。
ただ革命を目指した人間であっても、葛藤や迷走は存在している。
思想から行動に移した人間でも、その道は真っ直ぐではなかった。
最後。
若松監督が、創り上げた「勇気がなかったんだよ」という言葉には。
強い美しさがあった。
あの時代のあの運動が、そして彼らの行動は、
罪として、受ける当然の罰が存在するが。
その時代が生んだ、国の強行もまた彼らを生み出す要因であり隙間を与えた。
武装という手段は、野蛮であり蛮行。
ただ、それと同じくらいの情報操作もまた蛮行であり。
事実自体をまげて、世論を操作することもまた暴力である。
しかしながら、大きなもの国家権力に立ち向かう前に。
目の前に起こった矛盾や疑問を払拭せずに暴走したこと。
それを制止せず黙認した上で革命を叫んだこと。
そこに何も生まれなかったこと。
あさま山荘という砂上の楼閣。
しかしながら、確かにあった事実。
そういう意味の中で、繰り広げられた物語。
その物語を事件だとして、済ませたくないと。
あの瞬間あの生き方しか出来なかった人間たちがいて。
それは何も過去のことではなく。
これからも起こりうる誘発性のある突発。
そこに浮かぶ感情であったり怒りがどこの矛先で、どのタイミングで表出するかはわからない。
ただ言えることは、何も隠さず。
向き合い。
その中で、良し悪しを細かく精査せず、それでいて。
言葉の端に本質を含ませるこのフィルムの実感は素晴らしい。
「連合赤軍」の映画としてみることも然り。
また自己投影しながら。
自分の生き方を問うのもまた趣があると思う。
どんな宗教を信じようが。
どんな境遇にういようが。
どんな仕打ちを受けようが。
どんな後悔があろうが。
決めてるのは、自分であり。
判断してるのもまた自分。
そこにある自分というものを、どこまで信じて裏切らないか。
そして、その自分をどこに向けるのか。
辛酸や苦しみの中から這出た己など、さほど意味がなく。
本当の己は、そのようなものに対峙する前から結果が出ていて。
埋もれることなく、己を見つめることが出来ると思う。
困難を困難と思わず、後悔を笑い。
また借りを作らず、貸しを問わず。
自然と回避したり裕に超える自分こそ。
何か、強い信念があるのじゃないかと考えてしまう。
革命を叫んだ戦いで。
「あさま山荘」では名誉の革命の死は無かった。
生きてこその革命。
命ある限りの革命。
どのような命題があったのか、ボクはまた本を読まなくちゃいけないと思う。
でも、思想の机上から表に出たときに。
賭せるようなものがあったら。
あさま山荘まで行き着かなかったと思う。
ボクの考えでは、まず連合赤軍にも入ってないのかもしれない。
誰もが何かの。
そう不意のタイミング、偶然。
あの時代の自然の流れで行き着いた場所が赤軍で。
そこが抜けることも逸脱することも許されないく空間となり。
その空間の混沌が闇に混じったこと。
シビアで冷酷で。
それが思想故だというならば。
信仰は自由だが、徒党を組むべきではないと思ったりもしたり。
紙一重の転落。
いずれにせよ、同志殺しといわれた彼らが、その同志殺しが消えかすんだのは、
テロルとしてのあさま山荘事件があったこと。
賞賛できる事件でもなければ、思想でもない。
ただ、オウム同様。
そこに踏み込んだのも自分の意思。
選択したことが大部分で。
そういうことを考えると、翻弄されたわけでもないし、流されたわけでもない。
終着の予期は出来ずとも、その結果には自分で自分の結論を飲まざるを得ない。
信じたものが間違ってると思ったら、それは自己否定になるし。
やり直しがおおよそ利くものだが、何度もやり直しをする自分の人生が果たして、
良いものなのか悪いものなのか、その評価もまた自分にしか出来ないのだから。
フィルムが流れる3時間以上の、時間の訪れが来る。
未だボクの中では映画が終わっていない。
=
この長文が正しい言葉で書けたか、自分でも不明瞭ではあります。
しかしながら、自分に問い考え、書いたわけですから。
これでいいのだと、そう吐きます。
我が家のBlogへ復活のnice!ありがとうございました。
また綴っていきますので、ご贔屓にお願いします^^
先日BSで放送されていましたね。
この事件の時は、オイラはまだ母上のお腹の中で、
臨月だったそうです。
仕事をホッタラカシで親父は生中継のTVを見ていたそうです。
彼らなりのポリシーで国を善くしたいしたい、と熱くなれたのだと思いますが、
私達(若者と云いたい)もアクションを興せるかというと、
必ずしもそんな人間性を持ち合わせてもいなくて、
文句云う輩ばかりです。
人それぞれ、違う表現で革命を起こしているのかもしれませんが。
偉そうな事を書いてしまいました。
by ひでくん (2008-04-01 08:47)
>ひでくん様
人それぞれ革命を起こしてるとおもいます。
そのレベルは個人差もある。
でも些細なことから革命というよりは、反逆から始まり。
その反逆がいつしか革命なことになるのは、
国家レベルであろうが、家庭レベルであろうが。
必ずあること。
凄くステキなコメントありがとうございます。
ボクもまさにそう同じように想います。
by ルースターズ (2008-04-01 21:22)