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「空中庭園」 豊田利晃監督  [君にMOVIEを!]

幸せの形は、人それぞれ違うように、家族の幸せの形も違う。
着床をした時点から、子宮とオサラバする≒10ヶ月の時間の旅を終えると、
始まる「家族」というSTART。
しかしながら、何をゴールとするのか?

子供の結婚?
伴侶の死?
自分の死?
子供の死?

時間として区切る「終わりの存在」を求めるために、それをゴールとする瞬間のために、
家族と時間を過ごし、家族の為に生きる時間を作るのではなく。
そこに自分が存在したいがために、計算もせず、欲も持たず。

ただ、「幸せ」という影も形も味も匂いもないものを、常に貪欲に探求するのではなく、
日々普通を積み重ねるだけで、いつのまにか結果的な幸せな形が訪れたり、
時に苦渋な時間を味わったり。

そういうバイオリズムにも似た上下運動を繰り返しながら、僕らは日々を生きている必要。

「普通」を恐れず、「普通」の流れの中で、
なんとなしの幸せを感じる瞬間の訪れを、不意に感じたいと。

でも感じた時に、その不意の幸せがくるわけで。
不意を予見できたら、それを「幸せ」と感じる事は出来ない。

自分の幸せを作るための「作られた幸せ」「プロデュースした誰かの幸せ」は、
自分が幸せになるものではなく、贈る「誰か」の為に幸せを得るものだと感じるのです。
それが愛する家族の幸せだったとしても。
決して、自分の心底な幸せとは繋がらない。

心底幸せというのは、自分にとっては予想も出来ないことが訪れた時。

「空中庭園」 DVD発売。

溜めてた臭気を放つ途中のシーン。

衝突を繰り返し、輪郭を放つ家族という円。
自分が望むようにコントロール整形することは、不可能に近く。
いびつだからこそ、少しばかり余計に愛を感じたり。
いびつだから、自分の形に合わせることが出来たりとか。

そういう幸せの探求の形を、強引に持っていく流れから、徐々に綺麗な形を作る。
小泉今日子のみならず、大楠道代の素晴らしい表情の巡り方には、驚きを感じる。
フィルムのラストに向かうまでの、口調1つもまた完璧な情景を生み出す。

最後のシーンへの階段。
ブチ撒けたものを、丁寧に積み重ねる映像。
ソニンの最後のカットも、想像も出来ない素晴らしいものだったし、
小泉今日子と大楠道代の電話のシーンも、震えがくるくらい素晴らしいものだった。
一見、無造作に散らばった理不尽なパズルは、実は修復を予見しながら
フィルムを散らばしただけであり、最後のシーンにピースが綺麗にはまる映画は、
見ていても心地が良い。
それも、最初の散らばりかたが半端じゃなかった分、ラストを間違うととんでもない駄作に
なる危険性を孕むにも関わらず、それが綺麗にはまる美しさには、脱帽です。

得てして、広げすぎた物語の構成は消化不良を生むのですが、それも感じず。

「フィルムを見たな」という実感と時間。

豊田監督は執行猶予の後、新たな形を探している。

映画監督という立場における薬物の罪、しかしながら彼の仕事を見たいと感じる。

消えてしまうには、まったくもって惜しいと感じる。
フィルムは、1つ1つが革命であって欲しい。
ありがちなフィルムではなくて、何かをひっくり返す力であって欲しい。
そういった意味で、必ず豊田監督には戻ってきて欲しい。

クスリを使い、罰を受け、社会に戻り、罪を背負い。
そうして出来上がった作品の力がフィルムに宿る瞬間を、お金という対価を出して見たいと。
そう思います。


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コメント 2

豊田監督当人はけっこう元気みたいなので、そのうちまた作り出すんじゃないでしょうか。
by (2006-06-20 15:40) 

ルースターズ

>100㏄様
みたいっすね。最近よく名前を目にします。
復活切望!!
by ルースターズ (2006-06-21 11:53) 

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