「ヒロシマナガサキ」 [君にMOVIEを!]
どこに感情が吹き飛ばされようとも、その史実を直視する義務がある。
「原爆投下」
それがこの日本に生まれたのならば尚更で。
砕け散った感情を、パズルのように組み合わせた後。
新しい形が生まれても、それは自分にとってきっとプラスの出来事。
「ヒロシマナガサキ」
きっと感情は溶け、今までの価値観や考え方の崩壊を招くことは安易に予想が出来。
それによって、起こる弊害も想像がつく。
感情が壊れるというのは、辛辣で心地良いものではない。
辛酸を舐め、歯噛みする感情の起伏の中に、きっと沈みこむ己が理解出来るなら
そこに踏み込まないのが利口というもの。
それでも、「ヒロシマナガサキ」については、忘れてはいけないし、
踏みこまなくてはいけない。
久間元防衛相の「しょうがない」発言。
この言葉の重きを知るのなら、あの男がのうのうと国会議員をすることなど、
おおよそ承服できることじゃない。
最低限の知識ではなく、地獄の様相を言葉で飲み込まなくてはいけないのだと想います。
「平和」と想いをこめるのではなく、そこから溢れてしまった気持ちや容積の全てを
言葉に代替する苦心を。僕はそこに辿り着きたい。
今日、岩波ホール。
吹き飛ばされそうな感情に杭を撃ち。
自分がどこかいってしまいそうな時間を過ごす事が理解出来ても、僕はそこに向かう。
戦争を知らず、数多の悲しみの感情の上に構築された現世に生きるものとして、
62年前の時間軸を理解せず、この国に生活を降ろすなど。
「あぁ、今がPEACEだからね。」なんてポジティブな考え方を否定しない。
でも、数多の史実を理解せずに、今の平和に腰をすえる気は無い。
「世界唯一の被爆国」
この言葉の深く辛い意味を感じたい。
頭に打ち込みたい。
生涯忘れたくない。
だから、足を向ける。
戦争=重く辛く苦しい。だというならば、だからこそ。
ここで平和に生きる、あの時代からはおおよそ非現実的な人間が
それを客観的かつ直視せずにどうする?!とそう想う。
今日の吹き飛んだ感情の欠片全てが、僕の新しい感情の種となり。
そこから花が咲くことを、咲いてくれることを願う。
覚悟をした。
映画を観るのに覚悟するのは、生涯そうはないと想う。
全てを感じてきたい。
期待と不安の曖昧な温度が、僕の心を蝕む。
そこに花が咲かなくても、自分にはきっと何かが残る。