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グーグーだって猫である 【監督:犬童一心】 [君にMOVIEを!]

大島弓子を知らない。

正直、(特に姉・妹を持たない)一般的男子の常識であると思う。
未だにわからない。

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という訳で昨日は「グーグーだって猫である」を見た。
感想的には、
・小泉今日子が美人だ。
・グーグーが登場するシーンで、上野樹里のトップスがかみさんのと同じだ。
という2点である。

原作を読んでないので、なんともいえないが中途半端な切り貼りが余計に、
物語を薄くしてる気がした。

唯一は、サバと小泉今日子のシーン。
引いては、ガンだとわかってからの展開であります。

「サバ」というかつての肉親にも近しい存在から。
感情が移りきらないグーグーへの描写も丁寧ではあるが、
それ故に「別にグーグー出す必要あんのか?」ってなる。
サバとの回顧が物語の主要なら。
サバとの生活~別れ、そしと自分への葛藤などの描写でいいのであるが。

軸を持たなければ、シッチャカメッチャカに成るゆえ、
グーグーという軸を持って、全ての話を回転している印象でした。
キャストも、グーグーが軸で物語が回転していく。

ただ、そう考えないと辻褄が合わないものが多いのではないか?とも感じる。
麻子ではなく、グーグーを軸にすることで、麻子もまた回るわけですし。
グーグーがいないと繋がらないということも多い。

先にも書いたが、ガンを発症してからの展開は、実に面白かった。
夢ではあるが、実は死線なのかな?と思ったり。
マーティーの噛ませ方が意外で絶妙だったり。

サバという猫を愛しく思う感じがわかる。
全ての猫を愛する人々は。
人よりも早く人生、いや猫生を生きる家族に対して、声を聞いてみたいと思うことは
純粋な気持ちなのではないか?と感じる。

言葉を発しない生き物だからこそ、近くに想うことが出来たり。
互いに支えになってるようにも感じた。

この感覚は、ボクのように猫と生活していない人間にはわかりにくいとこではあるが、
不幸な中にも猫という家族を亡くし、辛い想いをしていた人を何人か知ってることで、
妙な感情理解が出来たのは確かなことだと想う。

故に、「グーグー」の存在は、軸でしかねぇーな。と感じてしまうのであります。
猫だから、可愛いと許されるでありますが(苦笑)

サバを軸にすると、生きてるうちに会話できることになり。
そういう意味では、なんだか奥深さが薄くなってしまう感じもあるし。

しかしながら!
ここまで考え込んでみる映画ではない(笑
ダッラーと見れば、ダッラーと終わる映画であると思う。
正直、小泉今日子勝ちもある(笑)

ここまで深く考えたのも、こうやってパソコンに向かうからであって。
あのシーンは・・・・これは・・・と思い出すから、溢れる感想である。
振り替えらなかったら「さほど・・・」と言う印象は否定しない。

昨今の日本映画の個人的見解は、
ドラマの二番煎じか。
巨額を投じても大したことなく、制作してる周辺だけが大盛り上がりしてるような映画か。
雰囲気を大切にしてばっかりで中身が見えない、見えにくい映画が多い。
後者の映画は、基本的に主演俳優・女優の素晴らしさだけが際立ち。作品としての衝撃は薄い。
残る感想は「主演の***が良かったよね」的。

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記事にはしなかった出来なかったが、ダークナイトのヒースレジャーについても
同じことを思う。
個人的には、バットマンの中でも残念な作品であるが、ヒースレジャー勝ちである。
バットマンというタイトルなら売れたのか?と苦笑いなとこである。
個人的にこの映画は残念だったので、文章にはしなかった。

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「デトロイトメタルシティ」も見たが、おやつ的であり、間食な感じであります。
事実、友達と酒を吞みながらみたんだが(笑)
真面目に見るのもバカらしいし、原作のシーンを上手く、そして綺麗に貼ったなー!という
印象はありますが、絶賛するほどコメディではないし、絶賛するほどの映画でもない。
松雪泰子じゃなくてもいんじゃね?と思うのは、ボクだけじゃないはず。

この映画を見ての再発見は、
カジヒデキは、そう言った意味では、天才だったんだなって今更感じます。

さて、グーグーに戻りますが、個人的には森三中がいいっす。
あーいう人絶対いるもん的な親近感がとても、コメディです。

いずれにせよ、小泉今日子の美人に圧倒されるでしょう。
この映画での賞はとても頷けます。
非常に、入り込んだ役だと思います。

原作を読んでないから、
どこまで浅いのか。
どこを端折ってるのか。
んで、どこが描ききれてないのか。
もしかしたら、原作で躓いてるのか。
ボクみたいな輩が判断するには、非常に難しいとこではありますが。

年をとるにつれ、映画に楽しみが希薄になってる気がします。
バカなら徹底的にバカ。
つまらないなら徹底的につまらない。
泣かすのなら、これでもか?!ぐらい泣かす。

この俳優が出てれば見るという風な見方ではなくなった分、
本当に自分の価値観がモロに出るので、なかなかステキな映画には出会えなくて、
寂しい部分もあります。

夢中になってしまう感じが欲しい。
例えば、年末にレンタルして見続けた仁義無き戦いのような(笑)

映画やDVD地味に見るようにしてるんですが、文章にしておきたい!と思うような作品以外は
生活の中での1ページとして括り、BLOGではスルーしてます(笑
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あさま山荘への道程 【監督:若松孝二】 [君にMOVIEを!]

どう考えていくかという命題がありますが。
ボクの言葉と、ボクの感覚で。
その全てが、ここに載せることが出来たら。
1通の手紙のような想いで、感想文。

1978年生まれのボクに「連合赤軍」と言っても、「あさま山荘」程度の知識しかない。
大学受験の為に蓄えた、猛烈な日本史の知識はあるが。
この昭和元禄は、試験には出ず。
現代の話など、公民レベルでないと設問にならないのかもしれません。

「連合赤軍」という仰々しい言葉のせいで。
色んな意味が煩雑に絡まるかもしれないが。

若松孝二監督を知ったのは、スタジオボイス。
赤塚不二夫氏との会談。
当時のボクはとても赤塚作品を崇拝していて。
赤塚不二夫氏の著書から漫画など、多くを読んだ。

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対談などは、更にその人間性を深く潜る深層的なもので。
興味深かった上に、何より話がコントの様で面白かった。
それが若松監督を知れたキッカケであります。

幾らかの時間の経過のあと。
この映画の存在を知るわけです。

この映画だけは、観なくちゃいけないと思えるのは。
思い入れからでもあり、対談の折、赤軍の足立正生氏の話があったこと。

あさま山荘を描く時には。
目を背けたくなるようなベースでのリンチシーンも含め、
「鉄球」イメージになってしまうあさま山荘への道程また過程、史実を踏まえてまとめる必然。

エンターティメント気質たるハリウッド大作に模したものよりも。
なぜあそこまで行き着くのかその果てと過程こそが大切だと思うのです。
なぜ、あそこまで考え、その生き方を実行できたのか?
それはカルトやら狂教のごとく、信奉信心を担う「肝」であり。
その狂気こそ、現代私たちが何か感じ得なくてはならないことだと感じたり。

映画を見る前に。
ボクは勝手なイメージをしました。
「革命」という大義名分の実行のための研鑽。
また思想の拮抗。
そして、あさま山荘での行く末。

ただ、そんなものは何も存在せず。
あったのは「個」

何かを信じることは良いことだと思うのです。
しかしながら、その信じたことや思想を誰かに布教したり、強要したり。
また、その信じるものへの意識を高めるための業だったり。

それは個人の中で処理し、蓄積すればいい話で。
それを誰かと共有したり、共感して欲しいと願ったならば。
必ず軋轢が生じます。

誰かに評価されたり、評価したりということ自体が、
実は、既に歪んでいると思うのです。

迷いであったり葛藤であったり。
自分が強くある人間は、他人に依存しない。
と言いたい所ですが、基本的には1人では生きていけない現実もまた然りで。

本当に何者にも依存しない。
そういうことが出来る人間は孤独や閉鎖、閉塞的なものが恒常で。
現代の生活や社会にあるならば、それはとても困難なことだと思うのです。
生産性が無ければ、基本食べることが出来ないわけですから。

評価を気にしたりすることで、自分を曲げ。
自分を曲げることで、評価を得る。

実のところ。
「革命」とは個人でしか成しえないことだと思うわけです。
音楽、絵画、など芸術と呼ばれるものの多くは、実は革命だと思ったりもするのです。
そこに宿るのは、個人の「魂や思想」の昇華で。
創り上げる時に、何を目指し何を達するのかという仰々命題ではなくても、
それらを高め形にし、己の意のままに作品を完成させた上での高い評価は、
誰にも媚びず誰にも曲げられず。
民衆を納得させることが出来るのは、1つ「革命」だと思うのです。

評価の良し悪しが革命イコールにならず、自己消化出来るだけでも、充分革命だとは思います。
最低でも、自分という人間を満足させてるわけですし、納得も賞賛も自分に与えてるのですから。

壊れるまで、その革命は続き。
形消えても、伝説として生きる。

先導し、煽動したことで巻き起こる「革命」は、その時代やその背景によって大きく異なり。
それは「革命」の域を超えた、転覆であったり土台ごと変える抜本的なものだったりする気がします。

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映画の中での頻繁な言葉。
「総括」という、自分の行動規範や反省、それを踏まえての目標。

そんな設定を、日々出来る人間がいるわけもなく。
それを瞬時に答えることが出来たとしても。
それを評価してもらう、また評価される必要も意味もないわけで。

それを中心に起こるこの映画の中盤の「総括」=リンチのシーンは、
もはや、後半になるとコントのような滑稽さすら見え隠れするぐらい。
そこに起こる全ては理解不明なものと感じるのです。

実際に、意味がわからなくなってしまい混迷したことは、
当人たちの自供などで明らかになってる訳だし。

麻痺した感覚以上に、その闘争的革命無き革命思想の暴走こそ。
実感の無さではないかと。
映画の後半、「やっと本当の敵と戦ってる」という言葉は如実だと思うのです。

国家権力粉砕を目論むことは無いものの。
社会の不条理に言葉を上げることへの意識の薄さは。
今、現代でも猛烈に存在し、その現代における、憤りの無さというか、希薄さは。
対岸の火事的な国民性に存在しうる。

革命を説くことはない。
それが正しいとも思えない。
ただ革命を目指した人間であっても、葛藤や迷走は存在している。
思想から行動に移した人間でも、その道は真っ直ぐではなかった。

最後。
若松監督が、創り上げた「勇気がなかったんだよ」という言葉には。
強い美しさがあった。

あの時代のあの運動が、そして彼らの行動は、
罪として、受ける当然の罰が存在するが。

その時代が生んだ、国の強行もまた彼らを生み出す要因であり隙間を与えた。
武装という手段は、野蛮であり蛮行。

ただ、それと同じくらいの情報操作もまた蛮行であり。
事実自体をまげて、世論を操作することもまた暴力である。

しかしながら、大きなもの国家権力に立ち向かう前に。
目の前に起こった矛盾や疑問を払拭せずに暴走したこと。
それを制止せず黙認した上で革命を叫んだこと。
そこに何も生まれなかったこと。
あさま山荘という砂上の楼閣。
しかしながら、確かにあった事実。

そういう意味の中で、繰り広げられた物語。
その物語を事件だとして、済ませたくないと。
あの瞬間あの生き方しか出来なかった人間たちがいて。

それは何も過去のことではなく。
これからも起こりうる誘発性のある突発。
そこに浮かぶ感情であったり怒りがどこの矛先で、どのタイミングで表出するかはわからない。

ただ言えることは、何も隠さず。
向き合い。
その中で、良し悪しを細かく精査せず、それでいて。
言葉の端に本質を含ませるこのフィルムの実感は素晴らしい。

「連合赤軍」の映画としてみることも然り。
また自己投影しながら。
自分の生き方を問うのもまた趣があると思う。

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どんな宗教を信じようが。
どんな境遇にういようが。
どんな仕打ちを受けようが。
どんな後悔があろうが。

決めてるのは、自分であり。
判断してるのもまた自分。
そこにある自分というものを、どこまで信じて裏切らないか。
そして、その自分をどこに向けるのか。

辛酸や苦しみの中から這出た己など、さほど意味がなく。
本当の己は、そのようなものに対峙する前から結果が出ていて。

埋もれることなく、己を見つめることが出来ると思う。
困難を困難と思わず、後悔を笑い。
また借りを作らず、貸しを問わず。

自然と回避したり裕に超える自分こそ。
何か、強い信念があるのじゃないかと考えてしまう。

革命を叫んだ戦いで。
「あさま山荘」では名誉の革命の死は無かった。
生きてこその革命。
命ある限りの革命。
どのような命題があったのか、ボクはまた本を読まなくちゃいけないと思う。

でも、思想の机上から表に出たときに。
賭せるようなものがあったら。
あさま山荘まで行き着かなかったと思う。
ボクの考えでは、まず連合赤軍にも入ってないのかもしれない。

誰もが何かの。
そう不意のタイミング、偶然。
あの時代の自然の流れで行き着いた場所が赤軍で。
そこが抜けることも逸脱することも許されないく空間となり。
その空間の混沌が闇に混じったこと。

シビアで冷酷で。
それが思想故だというならば。
信仰は自由だが、徒党を組むべきではないと思ったりもしたり。
紙一重の転落。

いずれにせよ、同志殺しといわれた彼らが、その同志殺しが消えかすんだのは、
テロルとしてのあさま山荘事件があったこと。

賞賛できる事件でもなければ、思想でもない。
ただ、オウム同様。
そこに踏み込んだのも自分の意思。

選択したことが大部分で。
そういうことを考えると、翻弄されたわけでもないし、流されたわけでもない。
終着の予期は出来ずとも、その結果には自分で自分の結論を飲まざるを得ない。

信じたものが間違ってると思ったら、それは自己否定になるし。
やり直しがおおよそ利くものだが、何度もやり直しをする自分の人生が果たして、
良いものなのか悪いものなのか、その評価もまた自分にしか出来ないのだから。

フィルムが流れる3時間以上の、時間の訪れが来る。
未だボクの中では映画が終わっていない。


この長文が正しい言葉で書けたか、自分でも不明瞭ではあります。
しかしながら、自分に問い考え、書いたわけですから。
これでいいのだと、そう吐きます。
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実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [君にMOVIEを!]

何を感じて。
何を想うか。
真実の話だし、先に上映された救出ばかりを主眼においた、
中身の無いハリウッド映画のような浅間山荘の映画とは、正直話が違う。

36年前の今日の事実を。

公開真近。

若松孝二の名前を知ったのは最近の出来事。
でも、そんなことは関係ない。

あのときに何があって。
時代の流れがどうあったのかということ。
そういう史実を飲み込み。
今の自分の生き方や思想を透かしてみたいだけ。

狂ってるのか?
テロルなのか?
呑み込める感情の範囲なのか?
異物なのか?

本を読まずとも、その流れを充分に知る若松監督の作品ならば。
是非に鑑賞する価値はある。

1978年生。
なにも知らないボクだからこそ、この映画に何か感じ得ない衝動を期待して止まない。
それは、錬金の映画ではなく。
ただ突き進み、貫く映画だからこそ、感じえる共感にも近い。

透かして。通して。それでもきっと何かは残る。



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オダギリジョー結婚! [君にMOVIEを!]

素敵。
奥様が香椎由宇。
20歳ながらその演技には、正直オーラがある。
ドラマにいて欲しくない。

うん、凄く素敵です。
おめでとう。
オダギリジョー云々じゃない。
香椎由宇が結婚を経て良きSTEPとして、更に女優として高みに。

凄くいい写真のオンパレードで。
自分のBLOGに飾りたかっただけ(笑


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転々 【監督:三木聡】 [君にMOVIEを!]

ロードムービーはわかりやすいという考え1つ。
起(承転)結がはっきりしてて。
(起)承転(結)の様を眺めながら、感情を飴玉のように溶かせばいいのだから。

ただ、それが厄介で。
ただ歩くというテーマを置いたならば。

細かな所に、その閃きを託す箇所があるはずだから、
ただダラダラ歩くんじゃなくて。
まさに、ここが少し起点となって、物語の転がり方が変わる!という
大切な場所を斜に構えて見るのが、凄く面白い。

自分だけの楽しみを見つけているようで。
ただ、映画は単調に物語が進むゆえ、その映画の鑑賞スタイルは非常に疲れる。
緩くみれる映画を緊張してみるわけだから(笑)

映画「転々」を見る。
一言で言うならば、大きな波はない。
そこに静かに流れる波と、理解しやすい物語の構成、そして笑いは、
師走の喧騒の中に見るには、随分余裕のあった時間かもしれない。
事実、時計を気にする事が一度もなかったわけだから。

映画を見て。
「自分は結構、東京を知ってるんじゃないか?」という錯覚に陥る。
吉祥寺から霞が関に向かう旅になるわけだから、
おおよそ中央線の道のりがスクリーンに浮かぶはず。

その中でも、東京散策というだけあって。
1つの場面場面で、住所表記の看板、目立つネオン、バス、もしくコミュニティバス。
公共施設や商店街など組み込むことで、よりリアルな東京の描写をしていたと想う。
花やしきにしても、そうで。
いつもの景色があって、なんだか疑似世界に沈んだ。

誰しもが知ってる東京じゃなくて、東京に住む人間が知ってる東京。

そのロールの中で、徐々にオダギリジョーと三浦友和の溶け合う感じがわかる。
阿佐ヶ谷の昔住んでたアパートに行くあのくだり。
あそこから初めて、行き先を強引ながら決められたことで少しずつ歯車が
噛みあって行き、オダギリジョーに感情が少しずつ灯るようになる。
その灯りかたも明白な感じがして、凄く優しい。

小泉今日子と三浦友和の関係も勝手に詮索しながら、転がすと凄く楽しい。
どこまでが嘘でどこまでが本当かってこと。
それが非常に面白い。

動物園のシーン。
相手のことがわかるゆえの、「彼に似ている」みたいな言葉は、
凄く深い演技だった気がするし、花やしきで三浦友和の服装はぶれて不鮮明だったが、
おそらく小泉今日子と同じ、千鳥格子だった気がする。
そんなことを感じたりする。

妻を愛してるゆえの道のりが、小泉今日子が出てくると少しずつニュアンスが
変わっていく。
その転がり方もまた、素敵。

ふせえり・松重豊・岩松了の3人と。
時々の妻の横臥するシーンで、時間軸(遺体発見=旅のリミット)を明確にさせながら、
ダラダラとした曖昧な流れにせず。
カレーライスと決める事で、フィナーレの位置を決める。
非常に起承転結が潔い映画だと想った。

最後1万円が飛ぶシーン。
どこかの階段で落ちそうだと話した1万円とのツガイ。
追いかける様はどこかのホテルと同じ様。

少しずつ溶けながらも、結局は別れることで、
なにか元に戻るような、そんなピリオド。
何かが残り、でも不確かで。でも確実に転がった溝は残る。

色んなシーンを反復させながらも、オダギリジョーは結局、
前に進んでいるのか?それとも進んでないのか?
それすらも、確かな確信はないけど、
それでいても、転がってることは確かに。
転々と。


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SAD VACATION 【監督:青山真治】 [君にMOVIEを!]

「HELPLESS」を観たときに、何も心に残らなくて真っ白になった。
あまりに凝視をしすぎたのか、それとも自分の感性が足りないのか。
自己嫌悪になるくらい何も読み込めなかった。

1日の中に起きた出来事。

その出来事しか理解出来なくて、それが本当にビックリした。
些細な箇所も逃さないようにしている。
どこかにヒントがあって。
些細なものほど。
些細な言葉であればあるほど。
その映画の奥ゆかしさが、更に娯楽を超えた範疇の中で自分の中で思い出となり輝き、
「いいものを観た」という満足と優越の支配。
フィルムの中にしか存在しないはずのものがあって。
それが自分の価値観を向上させる希有なものだから、必死に観るようになっている。

そんな覚悟と「SAD VACATION」へ続くというのならば、覚悟も並大抵ではなく。
それはそれは、隙間すら逃した覚えはない。

それでいても「HELPLESS」の物語の滑らかさといえば。
液体が流れるような面持ち。
手の中には水滴ほどしか残らなかった。

そんな水滴を頼りに、念願だった「SAD VACATION」に望む。

結論からいってしまえば、HELPLESSを観ていないと飲み込めない尺に存在するもの。
10年後という、明白な設定は見ていても無理がなく。
事実時間も10年強の時間を経ている。
それでいても、序章を組み上げた先の明確さ。
HELPLESSで不十分だと想ったものが、完璧に充足され。

それでいて、新しい物語までキッチリ完結させる脚本には、正直震えた。

無理が存在して、端折る部分の存在は当然あるにしても。
端折り方が丁寧な分、無理が無い。

1人1人にスポットを当てる分。
1人1人の物語も完結させながら、転がる物語には爽快さすらある。
理解の範疇を逸脱しない。

ふんだんに散らされた物語の欠片は、1ピースとして欠落を許されない欠片。
誰1人欠けることは許されない、最低限最小限で最高のキャスティング。ストーリー。

浅野忠信のあの演技、あの空気は浅野にしか出来ないし、
石田えりの空気も、あの瞬間にその評価を確信として固定させる。

あまりに物語の結びが、綺麗にほどけたものだから。
それが堪らなかった。
久しくこんな気持ちはない。

因果が無ければ、崩れない現実。
呵責に耐えがたい過去と通ずる現在。

全てのことは、今この瞬間から過去ならば。
今のことなど、未来と比較したら取るに足らない。
重要なのは先のこと。
先に咲くものを得たいのならば。
その為に種をまき。
栄養を与え。
その咲く瞬間を待つ。
それもただ待つのではなく、膨大な時間と労力を賭しても咲かせたい無償。

母親の子供への愛は無償。
そこに辿り着くまでの疑念や誤解、無知は完璧に物語に入り組んでいて。

時々、「行き過ぎた場面じゃないか?」と想うとこも。
結局極端な話「無償」なわけだから、そこに損得にまつわる駆け引きなど存在しない。
という結論。
短絡的に言えば、滑稽。

そういう流れの中での物語なのに。
母親の母性と括ってしまえば、それで終わってしまう話にも関わらず。
その因果への明らかな回答の出現まで。
最期を迎えないと物語は払拭されない。
全ての遺恨がほどけた瞬間に発する言葉に。
自分も共鳴。
ラストシーンまであと少しというところ。

巡りあいについての話も。
「偶然は存在せず、そこには必然しかないということ。」

想いの交錯ではなく。
何も知らない事実が歪ませたわけでもない。
全ては最初から決まっていたことで、それが現実。

書ききれないこともある。

本当は、「ここ」と「ここ」が接点で「ここ」に流れると書きたい。
人それぞれの感じる主眼は違うので、答えは1つとはならないものの。
九州の方言で若干のニュアンスを変えながら、そういう幾つもの点と点を線に結びながら、
答えを追いかける映画の見方が最近の快楽。
点在していればしているほど。
それがたまらなく労力を割いても、花を摘みとる感じにも似ていて。

観ていて、最期に流れ込む感情とか、経緯。
スコールが、一気に晴れる。
虹すら浮かぶような。
そんな映画の結びに。
シネマライズを、映画館を出て吸い込む煙草の爽快と言ったら。
久しく無かった。

シャボン玉は、必要なもの。
ラストシーンはそこではなく、その前にあって・・・・。

冒頭。
静かに流れるジョニー・サンダースを聞きながら。
僕はやっぱりジョニー・サンダースが、苦手だと想った。

僕の知っているジョニーサンダースは、逝き急いで。
それでいて、あんなにも生きることを渇望して。
・・・・そんなイメージがある。
楽観的に愛せるような音楽じゃないのが、感じれてしまう。
生命を削るような音楽は、やはり心地良いものではなく。
そこで感じるものは虚しく儚く、そして美しいと想ってしまう。
その矛盾に気持ちが耐えられない。

あくまで休暇。
しかしながら、休暇とは必ずしもHAPPYなものとは限らない。
SAD VACATION。

そういう休暇を経ても、結局は日々に帰る、戻る。
なぜならば、また日々を生きるから。


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BROKEN FLOWERS 【監督:ジム・ジャームッシュ】 [君にMOVIEを!]

妻が借りてきたDVD。
「中秋の名月」なぞ、気にも留めず眺める。
1人暗い部屋で酒も飲まず。
ソファーに寝転がり。
氷をガリガリ食うような男に、風情だとか情愛など掴めるわけもなし。

ブロークン・フラワーズ 【監督:ジム・ジャームッシュ】

ただ単純に「男」として。
少しばかり「どこにでもありそうな匂い」を感じてしまいました。
ビル・マーレイのあの空気。
度々の女性に対して使い分ける色香というものが、フィルムからほのかに香ってくる。
贈る花が都度違うだとか、そんな些細なことでも敏感に勝手に想像してしまう。
そんな演技の中に「ドン・ジョンストン」の過去の生き方がある。
あんなにフレッドペリーが似合う大人もいない。

人生歩む中で、色んな場面でいつもとは違う自分を演じ、
演じているうちに、その自分になってしまう。
そんな経験の無い男はいないはず。
恋をすれば、何も異性に限らず。
人を好きになれば。

好きな女の子に対して、嘘ではないのだが。
見栄にも似た嘘をつき、その娘の気を引くような。
そんな少しずつの嘘が、いつしか今の自分の礎になってたりする。
騙すつもりなぞ、無いけれど。
そんな虚飾の自分を好いてくれるならば、喜んでそうなってしまうような恋があるでしょう。

少し話は逸れますが。
多くの野郎たちが「そうだ!」とは言いませんが、
多くの。少なくても僕の周りにいる男どもは、
「以前付き合った女性は、未だに自分に好意がある」
と、大いなる勘違いをしております。
かという私もおそらく潜在的な確信犯です。
10年も昔の、いやそれよりも前の恋だとしても。

「昔の彼女に逢えるけど、どうする?」
と言われたらどうしますか?
僕はきっと逢います!と言うでしょう。

でもきっと逢っても、昔のあの娘は「?!」ではなく「??」なんだろうなと
容易に想像できた挙句。
「何しにきたの?」と微笑んでいってくれる人ばかりでは無いだろうし。
そんな淡い期待なんて、コーヒーフィルターにも残っていやしないのですが。

それでも、どんな人生になったのかな?だなんて上から目線で
愛した人の僕の知らない人生の先に、現在に興味を抱いてしまいます。

SEXをしただとかじゃなくて。
キスをしただとかじゃなくて。
ただ好きだったあの娘がどうなったのかという、恋の結末を見たいような心地です。

「もういい!見たくない!逢いたくない!!」と言っても一握の興味はあるはず。
だなんて、そんなことを考える隙間があるくらい、時間に緩みもある映画。
そして、結局は足を向けるドンの「男的当たり前」。

息子を。
息子の母親を探す旅。
いやそれすらでもない命題の中の迷走。ロードムービー。

女性にも流れる平等な時間軸。
そうですよね。
僕だって好きだった娘がいつまでも、10代や20代な訳じゃない。
同じくらい年齢を重ねてるわけだから。
そんな昔の恋のことを珍しくぼんやり考えてしまいました。

ロウソクの灯りが消えるような。
そんなラストを見送って、「どこ」と「どこ」を繋げて。
「どこ」と「どこ」とを切り離して。
そして、「どこ」と「どこ」に確信を持ち、ハリボテを捨てる。

自分なりの解釈の中で、自分なりの確信が生える。
そこを摘み取って、飲み込めば。
ジムジャームッシュの本質に迫らずとも、遠からず近からず。
映画の意味がわかる。

実に、聡明でわかりやすかった問題が、ラストで「まやかしの迷宮」にと落ちるわけだが。
それは、実は迷宮ではなく。
結局、理解しているものへの答えであり、疑問だったりもする。

ありきたりなハリウッドの作品ならば、誰が見てもわかりやすい物語の結びだろうけど、
そうはいかない。
答えなんて簡単に無い方がいい。

むしろ、少し自分の中で整理して、サイドストーリーを感じれるくらいがいい。
スピンオフのような。

座頭市ばかり見ていたから。
考えてコラージュ出来る映画。
ただ黙っても物語を感じれる夜から、
朝食の香るコーヒーを流し込み、清清しい朝と憂鬱な1日の始まりのような。

湯船に浸かり、電気を落とし。
少し整理をしながら考える。

僕の手元には、1冊の本があって。
それがまた、この映画から遠く続く(東京の)恋というありきたりな話を。
そして自分にあった花の時間を、今束ねる・・・・・・・。


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「ヒロシマナガサキ」 [君にMOVIEを!]

どこに感情が吹き飛ばされようとも、その史実を直視する義務がある。
「原爆投下」
それがこの日本に生まれたのならば尚更で。

砕け散った感情を、パズルのように組み合わせた後。
新しい形が生まれても、それは自分にとってきっとプラスの出来事。

「ヒロシマナガサキ」
きっと感情は溶け、今までの価値観や考え方の崩壊を招くことは安易に予想が出来。
それによって、起こる弊害も想像がつく。
感情が壊れるというのは、辛辣で心地良いものではない。
辛酸を舐め、歯噛みする感情の起伏の中に、きっと沈みこむ己が理解出来るなら
そこに踏み込まないのが利口というもの。

それでも、「ヒロシマナガサキ」については、忘れてはいけないし、
踏みこまなくてはいけない。

久間元防衛相の「しょうがない」発言。
この言葉の重きを知るのなら、あの男がのうのうと国会議員をすることなど、
おおよそ承服できることじゃない。

最低限の知識ではなく、地獄の様相を言葉で飲み込まなくてはいけないのだと想います。

「平和」と想いをこめるのではなく、そこから溢れてしまった気持ちや容積の全てを
言葉に代替する苦心を。僕はそこに辿り着きたい。

今日、岩波ホール。
吹き飛ばされそうな感情に杭を撃ち。
自分がどこかいってしまいそうな時間を過ごす事が理解出来ても、僕はそこに向かう。

戦争を知らず、数多の悲しみの感情の上に構築された現世に生きるものとして、
62年前の時間軸を理解せず、この国に生活を降ろすなど。

「あぁ、今がPEACEだからね。」なんてポジティブな考え方を否定しない。
でも、数多の史実を理解せずに、今の平和に腰をすえる気は無い。

「世界唯一の被爆国」

この言葉の深く辛い意味を感じたい。
頭に打ち込みたい。
生涯忘れたくない。
だから、足を向ける。

戦争=重く辛く苦しい。だというならば、だからこそ。
ここで平和に生きる、あの時代からはおおよそ非現実的な人間が
それを客観的かつ直視せずにどうする?!とそう想う。

今日の吹き飛んだ感情の欠片全てが、僕の新しい感情の種となり。
そこから花が咲くことを、咲いてくれることを願う。

覚悟をした。
映画を観るのに覚悟するのは、生涯そうはないと想う。
全てを感じてきたい。
期待と不安の曖昧な温度が、僕の心を蝕む。

そこに花が咲かなくても、自分にはきっと何かが残る。


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「ナイスの森」 監督:石井克人 、三木俊一郎 、ANIKI [君にMOVIEを!]

この間、たまたまドラマ版「濱マイク」の最終回。
SIONが出ていた利重 剛監督「ビターズエンド」を見て。
濱マイクが猛烈に見たくなり、レンタル屋に。

このドラマだけは、呑みの誘いとかも全部断って見ていたもんで。
結構内容を覚えていたりして。
しかしながら、なんとなく浅野忠信見たさに竹内スグル監督 「1分間 700円」の回をレンタル。

やっぱり浅野忠信が凄いと想ったのは、それがドラマでもきっちり呼吸音が届くぐらいの
近さと確実に感じる体温や質感にあって。
フィルムならそれが顕著なのにな・・・と思いつつも、ドラマで見てもやっぱりカッコいい。

あぁ単純にカッコいい。
結局、コレ。
ちょっとした女子気分。

その辺にいそうな風貌なのに、絶対いない。
この当たり前に限りなく近い親近感の中に、稀代の存在感。矛盾。

フィルムスターはすげぇーと思ってた矢先。

「ナイスの森」 監督:石井克人 、三木俊一郎 、ANIKI

殺られた。
王道すら行く幾何学なシュール。
突き抜けた空想。
寺島進×浅野忠信と言えば、「ファイヤー!ゴールドラッシュ!!」
石井克人監督があのまんまの姿で、フィルムに戻してくれたわけですが。
あぁ、このユーモアでよかったと心底安心。
逆にカッコつけられても困る。

肩に力を入れて見たら絶対に凹みます。
それこそ、暑ぃーなー。苗場の天気はどうかなーなんて考えながら見てると、
その脱力感の隙間に入ってきます。

浅野忠信って、こういう真剣なコントの様相でも、
演じてると言うか地を出しながらシーンを乗り切る平凡がある。
この平凡がたまらなくかっこいい。

演じる必要はなくて、そこにすんなり入るような器の中、
自分が適度にコントロールをしながらフィルムを泳ぐ感じが堪らなく自然。
それは寺島進にも言えることだけど。

「座頭市」では気を抜かず。たわみもなく。
一気に演じる豪快かつ繊細さを兼ね備えながら。
それでもシュールな時には、しっかりシュール。

昔のフィルムスターのようにいつも「伊達」でいる必要もないわけですからね。

というわけで、「ナイスの森」
こんなクソ暑くて、大してやることもねぇー。
期日前での参議院議員選挙の投票だけは、
さっさと終えたそんな昼下がりには、完璧に吸い込まれます。

物語の流れだとか、深層を真相を探ったり理解しようとして見てはダメです。
ただそこに流れる映像を事象を飲み込むだけでいいのです。
噛む必要も無い。

たまには、こういう空気に呑まれながら。
なんの感情にも支配されない脱力した喪失感と充実感が、素敵です。


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「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」 松岡錠司監督 [君にMOVIEを!]

朝 9:00の回。
当然のようにガラガラだと踏んでいた渋谷シネパレスの朝は以外にも、
多くの老夫婦によって埋まっていた訳です。

暗くなってしまった館内。
スクリーンの明かりを頼りに座席に座ると、当たり前のようにブーツを脱ぎました。
期待は最高潮。不安は皆無。
そんな心地で映画を観るのは、大人になって初めての出来事な気がします。

誰もが当てはまる話=それが「かぁちゃん」の話。
究極の題材。
あん娘が好きで、とってもラブリー。
チュッチュチューだなんて、そんなもんは「かぁちゃん」という究極の題材に比べれば。
再利用の利かないオナニーの終わったテイッシュぐらいの意味しか持たない訳です。

娯楽ではなく、ロマンスでもない。
絶対に手を出してはいけない領域だと。
感情が絶対に揺れるのは間違い無いのですから。

しかしながら安易に手を出せる物ではなく。
そして誰もが出来ることでもない。
「母親のことを言葉に表現すること」が出来る人間と出来ない人間がいて。

出来る人間は、無限に続く母への想いをどこかで区切ることなど出来るわけもなく。
母への物語の終わりこそが、リリーさんの言う「自分の考える最悪の日」だと感じると思います。

早い段階で原作と出会い、このBLOGでも書いた感想。
リリー・フランキー 「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」なわけですが。

映画館で、涙をして。
自分でも少し動揺するくらいの涙は、嗚咽をこらえるのに必死だったくらい。
呼吸を詰まらせ。次の息を吸うのも困難なくらい気持ちが揺れました。
鼻水も流れ、涙はとめどなく流れました。

この原作とこの映画の衝動は、
自分にも必ず当てはまる「恥部」の存在を意識させられることにあるんじゃないか?
なんて想うのです。

母親に対しての想いや言動・行動。
過去~現在に至るところで自ら「母親の期待に応えることが出来なかった事実」を、
「恥部」だと認識したりする。
そして、この映画の終わり「オカンとの別れ」に向けて、
全てのものが「自分の考える最悪の日」に流れ込む。

リリーフランキーたる中川雅也を、自らに投影して。
そして、スクリーンのオダギリジョーを、自らに投影して。
オカンは、そのままのオカンで。

そうやって、当てはめていく作業の果てに「自分の考える最悪の日」を迎える瞬間を考える。

僕も、あまり多くを書きたくないのです。
書こうと思えば、とめどなく出る自らのかぁちゃんへの想いを吐露することになる。

ぼくのかぁちゃんは、今も病気です。
2年前に患いました。
その病が、「死」を意識せざるを得ない病だと知った日。
僕は絶望の淵を彷徨い。
病気の事実を受け入れるために、しっかりと自分を立てるため、3日間の時間を要しました。

「たった3日?」と想うかもしれませんが、流せる涙は全て流したし。
ほとんど眠れない3日間でした。
考えられる自分の思考は全て使い、そうやって過ごした3日間。

妻がバレーボールの大会で地方都市に行っていたことも救いだった。
たとえ妻でも、誰かに慰められてなんて、本当にゴメンだったから。

それ以降、1年の闘病は家族も共に。
本当に1つの物語になるくらい僕は、かぁちゃんのことを想いました。
ここには書けないくらいの人生で一番の苦しみや失望、絶望を味わいました。

今、かぁちゃんは仕事の終えたとうちゃんと安静で落ち着いた生活をしています。
幸いなことに、ガンには移行してないようです。

でも、僕がお金を稼ぐようになって。
かぁちゃんに想ってた「かぁちゃんとしたかった全てのこと」は泡になり、
今は現実味の無いものになりました。
その喪失感は、「親孝行」という名の自分が後悔を残さないエゴを、
目の前に母親がいながら、果たせない歯がゆい現実となりました。

僕は、マジメな子供じゃなかったから。
ガキ時分は、しょっちゅう怒られ何度もかぁちゃんにビンタを喰らい、
そして、かぁちゃんととうちゃんの金を喰い。
私立の6年一貫、煙草、酒、なんでもかんでもだったわけで。
・・・・・・僕のことはいーや。

原作を読んで観ても尚、素晴らしい映画だったと想います。
本質をボケさせないための輪郭を、時間内最大限とし。
その中での取捨選択もまた困難だったと想います。

オカンと過ごした時間。
それを2時間22分にすることなど、不可能なわけですから。
必然です。

それでも、リリーフランキーの母「ママンキー」への想いを僕は強く感じます。
僕も僕のかぁちゃんを愛してるからだとそう想います。

僕のかぁちゃんは、樹木希林に似ています(笑)
あの夜。
ベッドの上で暴れて、手枷をつけられても尚、体の痛みに苦しんだかぁちゃんと
抗ガン剤で苦しむオカンと僕のかぁちゃんの姿が重なり。

原作の時の感情と自分の経験が、映像になると更に加速し。
そんな病院でのシーンは感情が崩れてしまい、涙が止まりませんでした・・・・。
少し背中を丸めてベッドに向かう姿とかだとか。
かぁちゃんが、小さくなったと感じたことだとか。

元気な母親だったならば、僕にはこんな感情は訪れなかったと想います。
でも、そんな感情よりも、かぁちゃんに元気でいて欲しかったと心底想っています。

僕の夢は、かぁちゃんとBARに2人で行って。
その店で一番美味しいBEERで乾杯することでした・・・・・・。

(※画像は全て、「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」のBLOGから拝借致しました。
 素晴らしい撮影日記でした・・・・)


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