ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー展 @オペラシティギャラリー [君にARTを!]
※NO NAMEさんからの書き込みで、確認しましたが・・・。
Tokyo and My Daughter
ホンマ自身が娘の成長を記録した家族アルバムを思わせるタイトルだが、実際は異なる。
少女はホンマの子供ではないし、さらに少女の家族が撮った写真
(いわゆるファウンド・フォト found photo=見いだされた写真) の複写も混じり込んでいる。
こうして見る側の先入観や期待は巧妙にずらされ、やがてはっきりと揺らぎ始める。
しかし時代の空気のようなものは揺らぐことなく、明瞭に浮かび上がる。
とのこと。
曖昧のUPは、失礼なので
咀嚼のし直し。
指摘ありがとうございます。また飲み込み方が変わる。
自己中心的な部分もあるかもしれないが、恐れず書く。
先日、オペラシティにて「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」が開催されているとのことで、
平日の昼すぎ、娘と出かけた。
近所の美術館としては、最良で最愛な場所のオペラシティギャラリー。
フライヤーに、おかっぱの女の子が撮影されていて。
もはや、その子どもの愛くるしい姿だけでも、
何か自分の娘への慈しみも感じてしまう部分がある。
それは先日家族で見た「未来ちゃん」@パルコギャラリーでの写真展でも同じ気持ち。
娘は未来ちゃん同様、小さなこどもの写真を見ると
「りーちゃん!」と自分だと主張するように指差すが、
それは未来ちゃんであり、フライヤーの娘でもある。
本人では当然無い。
でも、そんな光景が見たくて足を運ぶ部分もある。
小さな子どもの日々の生活は、刺激ある生活だとは想うが、
異空間に手っ取り早くいけるのが美術館で、
TPOを養うのに、とてもいい場所であったりする。
娘を美術館・博物館に連れていくのは、恒常化していて。
1歳9ヶ月の赤ん坊に何がわかる?のではなく、
逆に、僕らが想像もしないようなリアクションをする。
それは美術や芸術に対して、感じる場所や角度が違うからであり、
その角度は体感したり、見たりしないと養われない。
まぁ、養う必要もなく感じればいいのだが。
歩き始めた娘の、歩行距離は飛躍的に伸び。
親の体は少しだけ楽になった。
ギャラリーでベビーカーを預ける。
ベビーカーに乗ってる視点は、歩く視点と変わらない。
そんなに大きくない美術館では、歩いてもらう
見上げながら興味の対象を模索していく。
ギャラリーに入るなり、2度。
「手を繋いでください」と厳しく言われた。
少し「?」ときたが、「怒られちゃった」と笑ってみせた。
写真は子どもの手の届かないはるか上なのに、手を繋ぐのは、作品保護のため?
周りの迷惑防止のため?
平日の昼間。
客もまばらすぎる館内で、1歳9ヶ月かトコトコ歩くだけで、迷惑になんのか?
それがルールのなのか?と何か表現できないムラムラ感が残る。
「皆に言っています」とでも話すのでしょうか?
他にも、このギャラリーには「M」の展示室と。
床から少し高く、作品が展示している。
こどもには「もってこい」のテーブルのように。
学芸員だかSTAFFは、もうこどもがいるだけで、
コッチをしきりに気にし、作品に手をつかないかどうかを
凝視している姿が見えた。
冊子には「自由にみて」と書いてある。
その自由とはなんだろうか?
空間としても。
非常に見ている側としては、興味を探られるようで、
凄く写真展としては、くすぐられる部分も多かった。
「TRAILS」然り、家族の肖像が並ぶ写真然り。
TRAILSでは、娘がジーっと見続けて。
何枚も何枚も繰り返し見ながら、その角度を探しているのが
印象的だった。
「M」もそう、その写真に写る「映写」したかった部分を
無知な自分は、掴みきれないが。
娘は、興味本位でその入り口を探し続け。
入って最初の空間では、次第に娘は数多の女の子の写真に
ついに「りーちゃん」ではないと気付く。
表情の感じで汲み取れる。
得るものは大きかった。
人それぞれ、作品に触れれば価値観が揺さぶられる。
テストをされてるみたいなものでもある。
そこに100歳も1歳も関係ない。
それぞれの価値観。
静かな空間で静かに見るもの。
というのも、その人の楽しみの価値観だし、
話しながら同行者と真意を探るのも同じ。
そういう価値観を縛るルールは芸術の場では
緩くしないと、表現者の本意を汲めない部分が多くあると感じています。
誰かの観覧方法を強制することが正しいのか?ということです。
抱っこしてみても、手を繋いでみても、1人で見ても。
見方は変わります。
大きなものは変わらないかもだけど。
NYのMOMAも含め、作品を管理する側も、
最低限の観覧客のマナーを信じてる部分があると想います。
日本の美術館にはそれが少ない。
学芸員だかSTAFFだか。
もう「子ども」という括りの見方が、まるで「無理解者でしょ?」のような観点で、
その場にいるような気がしてなりません。
何か無理して、連れてきてないし。
別に招待券で見てるわけでもない。
親の意思で、親の考えで同伴させていて。
責任を以って、その場にいるわけで。
久し振りにこういう機会に遭遇してしまったのも微妙だった。
馬鹿なボクが。
ホンマタカシの真意を捉えてるかは、それは怪しい部分がある。
実際指摘を受けて、露呈しているわけだし。
じゃぁ、その他の大人の観覧者はどうか?
確かに未熟では在るが、小さな子どもも、
作品に向き合う観覧者であり極端かもしれないが、差別的な見解はやめて欲しい。
観覧料という縛りがあるなら、同じ額払ってもいい。
それぐらい、同等で美術に逢いにいくのだから。
久し振りに現代写真の第一人者の写真を見たが。
日常の風景なのに、愛らしく美しいと思えてしまうような。
そういう感情が芽出る優秀なツール「こども」。
ホンマ氏の娘という見方をしていても、結果違ってもその評価は変わらないし、
逆に自身のこどもではないということで、何ら違和感を感じる部分がない。
自分が、写真を撮る側にあったら、娘がいる以上。
自分の娘と同じくらいの娘を被写するときに、何か自然なものになるのかは微妙だ。
そういう感覚を得ると、親になったんだという気持ちになぜか繋がる。
こんな場面で想うのも不思議だと、書き直しながら想ったが。
Tokyo and My Daughter
ホンマ自身が娘の成長を記録した家族アルバムを思わせるタイトルだが、実際は異なる。
少女はホンマの子供ではないし、さらに少女の家族が撮った写真
(いわゆるファウンド・フォト found photo=見いだされた写真) の複写も混じり込んでいる。
こうして見る側の先入観や期待は巧妙にずらされ、やがてはっきりと揺らぎ始める。
しかし時代の空気のようなものは揺らぐことなく、明瞭に浮かび上がる。
とのこと。
曖昧のUPは、失礼なので
咀嚼のし直し。
指摘ありがとうございます。また飲み込み方が変わる。
自己中心的な部分もあるかもしれないが、恐れず書く。
先日、オペラシティにて「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」が開催されているとのことで、
平日の昼すぎ、娘と出かけた。
近所の美術館としては、最良で最愛な場所のオペラシティギャラリー。
フライヤーに、おかっぱの女の子が撮影されていて。
もはや、その子どもの愛くるしい姿だけでも、
何か自分の娘への慈しみも感じてしまう部分がある。
それは先日家族で見た「未来ちゃん」@パルコギャラリーでの写真展でも同じ気持ち。
娘は未来ちゃん同様、小さなこどもの写真を見ると
「りーちゃん!」と自分だと主張するように指差すが、
それは未来ちゃんであり、フライヤーの娘でもある。
本人では当然無い。
でも、そんな光景が見たくて足を運ぶ部分もある。
小さな子どもの日々の生活は、刺激ある生活だとは想うが、
異空間に手っ取り早くいけるのが美術館で、
TPOを養うのに、とてもいい場所であったりする。
娘を美術館・博物館に連れていくのは、恒常化していて。
1歳9ヶ月の赤ん坊に何がわかる?のではなく、
逆に、僕らが想像もしないようなリアクションをする。
それは美術や芸術に対して、感じる場所や角度が違うからであり、
その角度は体感したり、見たりしないと養われない。
まぁ、養う必要もなく感じればいいのだが。
歩き始めた娘の、歩行距離は飛躍的に伸び。
親の体は少しだけ楽になった。
ギャラリーでベビーカーを預ける。
ベビーカーに乗ってる視点は、歩く視点と変わらない。
そんなに大きくない美術館では、歩いてもらう
見上げながら興味の対象を模索していく。
ギャラリーに入るなり、2度。
「手を繋いでください」と厳しく言われた。
少し「?」ときたが、「怒られちゃった」と笑ってみせた。
写真は子どもの手の届かないはるか上なのに、手を繋ぐのは、作品保護のため?
周りの迷惑防止のため?
平日の昼間。
客もまばらすぎる館内で、1歳9ヶ月かトコトコ歩くだけで、迷惑になんのか?
それがルールのなのか?と何か表現できないムラムラ感が残る。
「皆に言っています」とでも話すのでしょうか?
他にも、このギャラリーには「M」の展示室と。
床から少し高く、作品が展示している。
こどもには「もってこい」のテーブルのように。
学芸員だかSTAFFは、もうこどもがいるだけで、
コッチをしきりに気にし、作品に手をつかないかどうかを
凝視している姿が見えた。
冊子には「自由にみて」と書いてある。
その自由とはなんだろうか?
空間としても。
非常に見ている側としては、興味を探られるようで、
凄く写真展としては、くすぐられる部分も多かった。
「TRAILS」然り、家族の肖像が並ぶ写真然り。
TRAILSでは、娘がジーっと見続けて。
何枚も何枚も繰り返し見ながら、その角度を探しているのが
印象的だった。
「M」もそう、その写真に写る「映写」したかった部分を
無知な自分は、掴みきれないが。
娘は、興味本位でその入り口を探し続け。
入って最初の空間では、次第に娘は数多の女の子の写真に
ついに「りーちゃん」ではないと気付く。
表情の感じで汲み取れる。
得るものは大きかった。
人それぞれ、作品に触れれば価値観が揺さぶられる。
テストをされてるみたいなものでもある。
そこに100歳も1歳も関係ない。
それぞれの価値観。
静かな空間で静かに見るもの。
というのも、その人の楽しみの価値観だし、
話しながら同行者と真意を探るのも同じ。
そういう価値観を縛るルールは芸術の場では
緩くしないと、表現者の本意を汲めない部分が多くあると感じています。
誰かの観覧方法を強制することが正しいのか?ということです。
抱っこしてみても、手を繋いでみても、1人で見ても。
見方は変わります。
大きなものは変わらないかもだけど。
NYのMOMAも含め、作品を管理する側も、
最低限の観覧客のマナーを信じてる部分があると想います。
日本の美術館にはそれが少ない。
学芸員だかSTAFFだか。
もう「子ども」という括りの見方が、まるで「無理解者でしょ?」のような観点で、
その場にいるような気がしてなりません。
何か無理して、連れてきてないし。
別に招待券で見てるわけでもない。
親の意思で、親の考えで同伴させていて。
責任を以って、その場にいるわけで。
久し振りにこういう機会に遭遇してしまったのも微妙だった。
馬鹿なボクが。
ホンマタカシの真意を捉えてるかは、それは怪しい部分がある。
実際指摘を受けて、露呈しているわけだし。
じゃぁ、その他の大人の観覧者はどうか?
確かに未熟では在るが、小さな子どもも、
作品に向き合う観覧者であり極端かもしれないが、差別的な見解はやめて欲しい。
観覧料という縛りがあるなら、同じ額払ってもいい。
それぐらい、同等で美術に逢いにいくのだから。
久し振りに現代写真の第一人者の写真を見たが。
日常の風景なのに、愛らしく美しいと思えてしまうような。
そういう感情が芽出る優秀なツール「こども」。
ホンマ氏の娘という見方をしていても、結果違ってもその評価は変わらないし、
逆に自身のこどもではないということで、何ら違和感を感じる部分がない。
自分が、写真を撮る側にあったら、娘がいる以上。
自分の娘と同じくらいの娘を被写するときに、何か自然なものになるのかは微妙だ。
そういう感覚を得ると、親になったんだという気持ちになぜか繋がる。
こんな場面で想うのも不思議だと、書き直しながら想ったが。
言い方に問題があったのにかもしれませんね。
あとホンマタカシさんの娘ではありません。
娘という設定の作品です。
by NO NAME (2011-06-12 00:57)
はじめまして。ブログを読ませて頂きました。
ん~、何と言うか、これは日本人独特の考え方なのでしょうかね?
「美術館=神聖なる場所」みたいな(笑)。
確かに間違えではないですけど。。
大人と違い、子供というのは、考えずに物を見て・触れ・感じ、
その積み重ねで感性が高まってくる。これは大人になるというより、
人間の「進化」の部分の1番重要な部分じゃないかなと、僕は思います。
音楽も色々な見方、聞き方、ノリ方があって、周りを気にせず、
自分なりの楽しみ方をする様に、ギャラリーもそうあって欲しいですね。
しかし、この記事を読んで1番感じたのは、
日本の美術館の事ではなく、
「娘さんに対する愛情」でしたよ★
by KOZI-69 (2011-06-12 01:29)
>NO NAME様
指摘ありがとうございます。
この指摘&書き直し後に1人でもう1回行きましたが、
また少し違う気持ちで見れました。
ありがとうございました!!!
by ルースターズ (2011-08-01 14:51)
>KOZI-69様
確かにそう想います。
日本独特の感じです。
ギャラリーのみならずというか、PUBLICな場所での
こどもの品位というか空気を読み加減は均一じゃないし、
イメージもよくないですからね。
残念な部分ですが・・・。
うちの娘も100点ではないですから。
by ルースターズ (2011-08-01 14:53)